2012.05.10
古河の歴史16 by もも子 [まちの歴史]
〔古河に開く足利文化〕
幼い頃から鎌倉に育った古河公方成氏は、戦乱が一時落ち着くと(都鄙(とひ)の和睦)、古河を鎌倉と同じような地にしようと多くの文化を古河にもたらした。鎌倉の円覚寺(えんかくじ)にゆかりのある乾亨院(けんきょういん)(のち永仙院(ようぜいいん))を建立したほか、鎌倉の長谷寺や鶴岡八幡宮などを古河に勧請(かんじょう)している。
〔医聖 田代三喜(たしろさんき)〕
二代古河公方足利政氏は、1509年(永正6年)、医聖といわれていた田代三喜を古河に招いた。
三喜はその処方の傷食丸(しょうしょくがん)や三喜丸(さんきまる)という薬を使い、古河地方の医療に大きく貢献した。
三喜は明(みん)に3度も渡り、日本に理論医学を伝えた人物である。古河の人たちから親しみと尊敬の念をもたれ、古河三喜とまで呼ばれた名医であった。当時の三喜丸は今なお伝え残っている。永仙院跡(桜町)に碑が建っている。
〔連歌師 猪苗代兼載(いなわしろけんさい)〕
猪苗代兼載は連化や和歌を学び、後土御門(ごつちみかど)天皇に仕え、将軍足利義政の歌の師にもなった有名な歌人である。晩年古河の地に住み、当時の名医田代三喜から病の治療を受けていた。
桜をこよなく愛した兼載が、自らの屋敷に桜を植えたことから、桜町の地名が生まれたとされている。
1510年(永正7年)に古河で病死し、野渡の満福寺に葬られた。
そこには長く「匂桜(によいざくら)」とよばれる桜があり、兼載の供養碑には「桜散りて名のみ残るや墳桜(つかざくら)」ときざまれている。
2012.05.09
古河の歴史15 by もも子 [まちの歴史]
〔氏女(うじひめ)〕
義氏の娘氏女は、小田原北条氏滅亡後、公方が絶えることを惜しんだ豊臣秀吉により、鴻巣・原・長谷・牧野地などを領地として与えられ、古河城から鴻巣御所(こうのすごしょ)(茨城県指定史跡・古河公方館跡)へ移された。
更に三代公方高基の弟義明の孫である喜連川国朝に嫁いだ(氏女は鴻巣御所に居住)。
国朝が病に倒れると、氏女はその弟の頼氏(よりうじ)と結ばれて、義親(よしちか)を生んだ。
頼氏は喜連川家の家督を継いだ。
氏女は1620年(元和6年)に鴻巣御所で46歳の生涯を終えるまで、古河の氏の誇りを持ち続けていたのである。
法号を「徳源院伝慈峰晃公」(とくげんいんでんじほうこうこう)といい、鴻巣の徳源院に葬られたといわれている。
義親の子尊信(たかのぶ)は古河から喜連川(栃木県喜連川町)に移り、古河公方の時代は終わった。
2012.05.08
古河の歴史14 by もも子 [まちの歴史]
〔四代古河公方足利晴氏(はるうじ)〕
高基の子晴氏は、北条氏綱(うじつな)(早雲の子)の娘と結婚した。これは公方の力を盛り返そうとして北条氏との親戚関係を作ったと考えられるが、かえって関東での北条氏の勢力を強いものにしてしまった。
その後、晴氏は上杉憲政と手を結び、身内である北条氏を攻めて(1546年川越の夜戦)力を示そうとした。
しかし、氏綱の子氏康に破れ、相模(さがみ)国波多野(はたの)(神奈川県秦野市)に追われた後、下総(しもうさ)国関宿(せきやど)(千葉県関宿町)に移された。元栗橋(五霞町)付近の島というところで1560年(永禄3年)に没した。
関宿町の宗英寺(そうえいじ)に墓所とされるものがある。
2012.04.29
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