2012.05.21
世紀の天体ショー 『 金環日食 』 by もも子 [日記]
◇観ましたか?『 金環日食 』
テレビなどのメディアもこの世紀の天体ショーを一斉に取り上げていましたね。
◇どれだけの人がこの金環日食を観たのでしょう。
今朝7時過ぎから道のあちらこちらで、数人ずつのかたまりになって、日食観察グラスを次々に回して覗き込んでいる人達がいました。
◇また、家の中のテレビを観ながら、角度を変えて空を見上げ観察する。
という裏技を使った人もいたとか・・・
◇だんだんその時間が近づいてくると、「みえた!みえた!」と歓声が上がるなど、あちこちで小さいながらも盛り上がりを見せていました。
◇同時に太陽エネルギー(光や熱)の凄さも感じましたね。
徐々に太陽光線が弱まって明るさに翳りが、同時にぐっと涼しくなってくるなど、ふだん普通に明るくそして暖かく感じる事が出来る太陽エネルギーのありがたさを感じとることもできましたね!
◇次に日本で金環日食が観られるのは、18年後の2030年、北海道だそうですよ!!
◇今朝、「ほんの短い時間、目と心を奪われ、感動した瞬間に立ち会えたこと、一生のうちでもとっても貴重な体験だった」と感じた人は私だけではないと思いますよ V(^^)V
2012.05.16
古河の歴史17 by もも子 [まちの歴史]
〔近世の古河〕
江戸時代の古河に足を踏み入れてみましょう。
古河のまちのあちらこちらに、今も江戸時代の面影を見る事ができます。
江戸時代の古河は、多彩な文化の交流点として栄え、幕府政治の一端を担うほどでした。
日本の歴史に多くの人物を送り出しました。
〔古河の歴代藩主〕
織田信長、豊臣秀吉の全国統一につづき、徳川家康が江戸に居城し政権をとった。
古河には徳川氏と関係の深い幕閣の大名が藩主として任ぜられ、明治維新まで約280年間11家28名の大名(古河藩主)が在城している。
〔古河城下の整備〕
古河藩主の初代藩主には、1590年(天正18年)小笠原秀政(おがさわらひでまさ)が松本から移り、10年間にわたって古河に在住し、城の修復をしたり兵農分離や検地を行い村の境界を決定したりして、城下や領内の整備を行った。
秀政は妻の父にあたる松平信康(まつだいらのぶやす)(徳川家康の長男)の供養のために隆岩寺(りゅうがんじ)を古河に建てた。
関が原の戦いの後の1601年(慶長6年)、古河から信濃国(しなののくに)の飯田に移り、その後大阪の陣のとき戦死している。
松平康長(まつだいらやすなが)は1602年(慶長7年)、上野国(こうづけのくに)白井から古河藩主になり、城下町の整備に力そそぎ、追手門や観音寺曲輪(くるわ)や日光街道の一里塚などをつくった。
また、桃山風の特徴を有する典型的な慶長建築といわれる雀神社の現在の社殿を造営している。
康長は9年間古河に在住し、その後笠間に移る。
小笠原信之(のぶゆき)は1612年(慶長17年)、武蔵国本庄から古河藩主になり、中田の八幡神社の社殿の造営をしている。信之は古河で没した。
信之の後、8歳の政信が後をついだ。政信は大阪の陣に年少で出陣する。
信之・政信合わせて7年間の在住期間であった。
政信は隣藩の関宿藩へ移り、そこで没している。
奥平忠昌(おくだいらただまさ)は1619年(元和5年)、宇都宮から古河藩主になり、長谷曲輪(くるわ)・立崎曲輪をつくり、古河城を拡張して城下町の大改造を行った。
釣(つり)天井事件の後、忠昌は宇都宮に戻った。忠昌の古河在城はわずか2年10ヶ月であった。
2012.05.10
古河の歴史16 by もも子 [まちの歴史]
〔古河に開く足利文化〕
幼い頃から鎌倉に育った古河公方成氏は、戦乱が一時落ち着くと(都鄙(とひ)の和睦)、古河を鎌倉と同じような地にしようと多くの文化を古河にもたらした。鎌倉の円覚寺(えんかくじ)にゆかりのある乾亨院(けんきょういん)(のち永仙院(ようぜいいん))を建立したほか、鎌倉の長谷寺や鶴岡八幡宮などを古河に勧請(かんじょう)している。
〔医聖 田代三喜(たしろさんき)〕
二代古河公方足利政氏は、1509年(永正6年)、医聖といわれていた田代三喜を古河に招いた。
三喜はその処方の傷食丸(しょうしょくがん)や三喜丸(さんきまる)という薬を使い、古河地方の医療に大きく貢献した。
三喜は明(みん)に3度も渡り、日本に理論医学を伝えた人物である。古河の人たちから親しみと尊敬の念をもたれ、古河三喜とまで呼ばれた名医であった。当時の三喜丸は今なお伝え残っている。永仙院跡(桜町)に碑が建っている。
〔連歌師 猪苗代兼載(いなわしろけんさい)〕
猪苗代兼載は連化や和歌を学び、後土御門(ごつちみかど)天皇に仕え、将軍足利義政の歌の師にもなった有名な歌人である。晩年古河の地に住み、当時の名医田代三喜から病の治療を受けていた。
桜をこよなく愛した兼載が、自らの屋敷に桜を植えたことから、桜町の地名が生まれたとされている。
1510年(永正7年)に古河で病死し、野渡の満福寺に葬られた。
そこには長く「匂桜(によいざくら)」とよばれる桜があり、兼載の供養碑には「桜散りて名のみ残るや墳桜(つかざくら)」ときざまれている。
2012.05.09
古河の歴史15 by もも子 [まちの歴史]
〔氏女(うじひめ)〕
義氏の娘氏女は、小田原北条氏滅亡後、公方が絶えることを惜しんだ豊臣秀吉により、鴻巣・原・長谷・牧野地などを領地として与えられ、古河城から鴻巣御所(こうのすごしょ)(茨城県指定史跡・古河公方館跡)へ移された。
更に三代公方高基の弟義明の孫である喜連川国朝に嫁いだ(氏女は鴻巣御所に居住)。
国朝が病に倒れると、氏女はその弟の頼氏(よりうじ)と結ばれて、義親(よしちか)を生んだ。
頼氏は喜連川家の家督を継いだ。
氏女は1620年(元和6年)に鴻巣御所で46歳の生涯を終えるまで、古河の氏の誇りを持ち続けていたのである。
法号を「徳源院伝慈峰晃公」(とくげんいんでんじほうこうこう)といい、鴻巣の徳源院に葬られたといわれている。
義親の子尊信(たかのぶ)は古河から喜連川(栃木県喜連川町)に移り、古河公方の時代は終わった。
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