2012.02.15
古河の歴史7 by もも子 [まちの歴史]
〔源頼政〕
行平は富士川の戦いの恩賞として、1193年(建久(けんきゅう)4年)に下河辺荘司(しょうじ)(下総国)となり、頼朝をいつも守る側近として重要な立場に置かれました。
行平が頼朝の難を救ったときに下河辺の荘民にとって非常に重い年貢となっていた馬の調達の免除を願ったところ、頼朝はその願いを聞き入れ、下河辺荘の馬の年貢を廃止したといわれています。
『このことから、行平が頼朝から信頼されていた事実と、行平の荘民思いの心が伝わってこよう。』(吾妻鏡(あづまかがみ)より)
1192年(建久3年)に源頼朝が鎌倉に幕府を開き、武家政治の時代となるが、これより先、1180年(治承(じしょう)4年)に以仁王(もちひとおう)を奉じ、最初に平氏打倒に立ち上がった源頼政は、当時関東に勢力をもっていた源氏が応援に駆けつける前に破れ、宇治(京都府)の平等院で自害した。
宇治の平等院には、頼政が軍扇(ぐんせん)上で割腹したところと伝えられる「扇の芝(おうぎのしば)」があり、そこに辞世の歌碑(死に臨んで残した歌)が建っています。
『埋もれ木の花咲くこともなかりしに身のなる果てぞかなしかりける』
平等院(鳳凰堂(ほうおうどう))の裏手境内(けいだい)には、檜(ひのき)の木に囲まれた頼政の墓(胴塚)があります。
頼政は弓の名手であり、そのころ京都で「ぬえ」という怪獣を射止めたという伝説をもち、それによって武勇の名が全国に広まったといわれており、また、歌人としても有名でもありました。
源頼政の名が登場し、また一歩古河の歴史を身近に感じられ、この先が気になりますね!
2012.02.06
古河の歴史6 by もも子 [まちの歴史]
源頼朝が関東一円にその力を伸ばそうとしたとき、小山朝政(ともまさ)は野木宮(のぎみや)(野木神社)を陣地として志田義広(しだよしひら)らの反対勢力を激戦の末に破った。
この野木宮の戦いでは、下河辺行平・政義(まさよし)(兄弟も大活躍し、ほうびが与えられた。
野木神社にも社領が贈られ、三代将軍源実朝(さねとも)は、その時の合戦のお礼として「神馬」を野木神社に贈ったと伝えられています。
行平は、「日本無双(むそう)の弓取り」といわれた弓の名人で、射会のときにはいつも一番に矢を射たとされ、二代将軍源頼家(よりいえ)の弓の師でもありました。
下河辺氏は一時関宿を本拠としたこともあるが、長くは古河(五霞、総和、三和、栗橋を含む一帯)を居所としていたことが、「永享記(えいきょうき)」という記録に記されています。
また、下河辺氏の創建といわれる古河城は、周りに堀を巡らし土塁(どるい)で囲った「館(やかた)づくり」であったといわれていますが、場所はいまだ明らかではありません。
永享記インデックスはこちらです。
興味深い記事がたくさんありますよ!
2012.01.31
古河の歴史5 by もも子 [まちの歴史]
〔下河辺行平(しもこうべゆきひら)〕
源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に幕府を開き、関東が政治の中心になると、古河も軍馬の供給地として、また、頼朝の御家人(ごけにん)の下河辺氏の領地として重要な地域となりました。
1180年(治承4年)、富士川の戦いで平氏を破った源氏が、負走する平氏を壇ノ浦で完全に滅ぼし、その「源平合戦」で大活躍した一人が、下河辺の領主(りょうしゅ)下河辺行平なのです。
この下河辺氏は、平将門を倒した藤原秀郷(ふじわら の ひでさと)の一族、小山氏の一門です。
小山氏は、当時の下野国の南部(現小山市)を中心に大きな勢力をもつ豪族で、その力は武蔵国・下総国にも及んでいました。その小山氏の中で最大の勢力を持っていたのが下河辺氏であったのです。
下河辺行平という人は、凄い力を持っていた人だったのですね!
そして、この先、下河辺行平の勢力はどのような広がりを見せていくのか、興味深いところですね!
2012.01.30
古河の歴史4 by もも子 [まちの歴史]
〔中世の古河〕
古河が日本の歴史のおもて舞台にたつのは、鎌倉時代から室町時代、つまり中世とよばれる時代です。
たとえば古河総合公園へ足を運んでみると、御所沼とよばれる大きな沼、そこへ半島状にひろがる館の跡、いまは無くなってしまった古河公方が開いた寺の跡、いずれも中世の関東地方に大きな力を誇った古河公方の史跡なのです。
古河総合公園は、古い歴史がいっぱい詰まった公園で、その公園のほぼ中央には御所沼が、北側には「足利三ヶ院」の一つ、足利義氏、氏女(うじひめ)、喜連川義親(よしちか)の墓所があります。
何気なく見過ごしてしまいそうなところが、実は、奥深い歴史の跡だったりする訳ですね!!
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