2012.02.06
古河の歴史6 by もも子 [まちの歴史]
源頼朝が関東一円にその力を伸ばそうとしたとき、小山朝政(ともまさ)は野木宮(のぎみや)(野木神社)を陣地として志田義広(しだよしひら)らの反対勢力を激戦の末に破った。
この野木宮の戦いでは、下河辺行平・政義(まさよし)(兄弟も大活躍し、ほうびが与えられた。
野木神社にも社領が贈られ、三代将軍源実朝(さねとも)は、その時の合戦のお礼として「神馬」を野木神社に贈ったと伝えられています。
行平は、「日本無双(むそう)の弓取り」といわれた弓の名人で、射会のときにはいつも一番に矢を射たとされ、二代将軍源頼家(よりいえ)の弓の師でもありました。
下河辺氏は一時関宿を本拠としたこともあるが、長くは古河(五霞、総和、三和、栗橋を含む一帯)を居所としていたことが、「永享記(えいきょうき)」という記録に記されています。
また、下河辺氏の創建といわれる古河城は、周りに堀を巡らし土塁(どるい)で囲った「館(やかた)づくり」であったといわれていますが、場所はいまだ明らかではありません。
永享記インデックスはこちらです。
興味深い記事がたくさんありますよ!
2012.01.31
古河の歴史5 by もも子 [まちの歴史]
〔下河辺行平(しもこうべゆきひら)〕
源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に幕府を開き、関東が政治の中心になると、古河も軍馬の供給地として、また、頼朝の御家人(ごけにん)の下河辺氏の領地として重要な地域となりました。
1180年(治承4年)、富士川の戦いで平氏を破った源氏が、負走する平氏を壇ノ浦で完全に滅ぼし、その「源平合戦」で大活躍した一人が、下河辺の領主(りょうしゅ)下河辺行平なのです。
この下河辺氏は、平将門を倒した藤原秀郷(ふじわら の ひでさと)の一族、小山氏の一門です。
小山氏は、当時の下野国の南部(現小山市)を中心に大きな勢力をもつ豪族で、その力は武蔵国・下総国にも及んでいました。その小山氏の中で最大の勢力を持っていたのが下河辺氏であったのです。
下河辺行平という人は、凄い力を持っていた人だったのですね!
そして、この先、下河辺行平の勢力はどのような広がりを見せていくのか、興味深いところですね!
2012.01.30
古河の歴史4 by もも子 [まちの歴史]
〔中世の古河〕
古河が日本の歴史のおもて舞台にたつのは、鎌倉時代から室町時代、つまり中世とよばれる時代です。
たとえば古河総合公園へ足を運んでみると、御所沼とよばれる大きな沼、そこへ半島状にひろがる館の跡、いまは無くなってしまった古河公方が開いた寺の跡、いずれも中世の関東地方に大きな力を誇った古河公方の史跡なのです。
古河総合公園は、古い歴史がいっぱい詰まった公園で、その公園のほぼ中央には御所沼が、北側には「足利三ヶ院」の一つ、足利義氏、氏女(うじひめ)、喜連川義親(よしちか)の墓所があります。
何気なく見過ごしてしまいそうなところが、実は、奥深い歴史の跡だったりする訳ですね!!
2012.01.23
古河の歴史3 by もも子 [まちの歴史]
〔馬の放牧地〕
8世紀には国道(官道(かんどう))が建設され、官道には宿駅(しゅくえき)が設けられました。
駅には馬(駅馬)が常備された。大宝(たいほう)律令(701年)後は特に馬が重視されるようになり、諸国で盛んに馬の生産が行われました。
面白いですね! 駅(驛)という字のつくりは“馬”ですね。
古河の台地でも広く馬の放牧が行われたと考えられ、「牧野地(まきのじ)(古河地区)・駒羽根(こまはね)(総和地区)・駒込(こまごめ)(三和地区)」などの馬に関する地名が今も残っています。
深く知っていくと歴史の面白みが更に増してきますね!!
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