2012.01.31
古河の歴史5 by もも子 [まちの歴史]
〔下河辺行平(しもこうべゆきひら)〕
源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に幕府を開き、関東が政治の中心になると、古河も軍馬の供給地として、また、頼朝の御家人(ごけにん)の下河辺氏の領地として重要な地域となりました。
1180年(治承4年)、富士川の戦いで平氏を破った源氏が、負走する平氏を壇ノ浦で完全に滅ぼし、その「源平合戦」で大活躍した一人が、下河辺の領主(りょうしゅ)下河辺行平なのです。
この下河辺氏は、平将門を倒した藤原秀郷(ふじわら の ひでさと)の一族、小山氏の一門です。
小山氏は、当時の下野国の南部(現小山市)を中心に大きな勢力をもつ豪族で、その力は武蔵国・下総国にも及んでいました。その小山氏の中で最大の勢力を持っていたのが下河辺氏であったのです。
下河辺行平という人は、凄い力を持っていた人だったのですね!
そして、この先、下河辺行平の勢力はどのような広がりを見せていくのか、興味深いところですね!
2012.01.30
古河の歴史4 by もも子 [まちの歴史]
〔中世の古河〕
古河が日本の歴史のおもて舞台にたつのは、鎌倉時代から室町時代、つまり中世とよばれる時代です。
たとえば古河総合公園へ足を運んでみると、御所沼とよばれる大きな沼、そこへ半島状にひろがる館の跡、いまは無くなってしまった古河公方が開いた寺の跡、いずれも中世の関東地方に大きな力を誇った古河公方の史跡なのです。
古河総合公園は、古い歴史がいっぱい詰まった公園で、その公園のほぼ中央には御所沼が、北側には「足利三ヶ院」の一つ、足利義氏、氏女(うじひめ)、喜連川義親(よしちか)の墓所があります。
何気なく見過ごしてしまいそうなところが、実は、奥深い歴史の跡だったりする訳ですね!!
2012.01.23
古河の歴史3 by もも子 [まちの歴史]
〔馬の放牧地〕
8世紀には国道(官道(かんどう))が建設され、官道には宿駅(しゅくえき)が設けられました。
駅には馬(駅馬)が常備された。大宝(たいほう)律令(701年)後は特に馬が重視されるようになり、諸国で盛んに馬の生産が行われました。
面白いですね! 駅(驛)という字のつくりは“馬”ですね。
古河の台地でも広く馬の放牧が行われたと考えられ、「牧野地(まきのじ)(古河地区)・駒羽根(こまはね)(総和地区)・駒込(こまごめ)(三和地区)」などの馬に関する地名が今も残っています。
深く知っていくと歴史の面白みが更に増してきますね!!
2012.01.20
古河の歴史2 by もも子 [まちの歴史]
〔雀神社〕
雀神社は、859年ごろ出雲大社(いずもたいしゃ)からの祭神を分けて祀ったとされています。
古河付近の総鎮守で大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなびこなのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)の3神をまつる郷社(ごうしゃ)で、国づくり、農業の守りの中心となった神社です。
神社名は、その頃このあたりが「雀が原」といったという説と、国を「鎮めの神」の鎮めがスズメに変化したという説があります。
雀神社・・・昔から古河の人たちにとっては、一年中お参りに行く代表的な神社でしたね。
初詣からはじまって、節分、結婚式、安産祈願、お宮参り、七五三、合格祈願、交通安全祈願、家内安全などなど、人が生きていく上で欠かせない心のよりどころ、祈りの場所でしたね。
2012.01.18
古河の歴史1 by もも子 [まちの歴史]
〜古河のことを調べた続き記事です〜
前回の「古河のこと」の掲載はここで確認
平安のころの古河
奈良時代の東北地方を治めるのに、関東地方(東国)の人々が駆り出され、そして、数回の戦いの後、蝦夷(えみし)は朝廷の支配下にはいっていきました。
平安時代になると、東国では、律令体制の矛盾を抑えられない状況が起き、朝廷は東国を重視するようになっていきました。
このころ古河に雀神社が勧請され、台地を中心に馬の放牧が盛んになったようです。
10世紀の中ごろ東国を中心に平将門の乱が起こり、武士団の成長や地方豪族の力が強まる原因ともなっていきました。
生まれたまち、住んでいるまち、あるいは勤めているまち、行った事があるまち、など少しでも関わりがあるこの古河のまちに興味を持って、その古河の昔を知ることはとても意義深いことですね!
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