2012.05.18
古河の歴史18 by もも子 [まちの歴史]
〔日光街道の整備と永井氏〕
永井直勝(ながいなおかつ)は1622年(元和8年)、笠間から古河藩主になる。長久手(ながくて)の戦いで活躍した武将で、永井寺(えいせいじ)を建立した。
子の永井尚政(なおまさ)はこれまでの古河藩主の中で初めて老中となる。尚政は古河城の御成門をつくったり新田開発にも取り組んだりしている。
また、中田宿から古河宿・野木宿を通る日光街道に松並木を植え、道幅も広い街道に整備した。この頃、古河の金堀谷においてキリシタン95名がはりつけにされたともいわれている。
〔前期の土井家〕
土井利勝(どいとしかつ)は1633年(寛永10年)、佐倉から古河藩主になり、大老になったほどの幕閣の大物で土井家の始祖である。また、徳川家康の子供ともいわれている。
利勝は古河城の修造にとりかかり、御三階櫓(やぐら)を完成させるなど近世の古河城と城下町の拡張・整備に力をつくした。
19条からなる「利勝公遺戒(いかい)」が残っているが、これは利勝の遺訓であるといわれ、このころ藩政や法制の基礎ができあがり、古河藩の家臣の役職制も整っていった。この遺戒は土井家に代々受けつがれた。
利勝は老中から大老へとなり、日光東照宮造営、参勤交代の制、鎖国令・武家諸法度など次々と将軍を助けて、幕政で手腕を振るっていた。
寛永の三輔(仁の酒井・勇の青山・智の土井)の一人といわれ、三代の将軍に仕えた名相とたたえられている。
72歳で没す。
利勝没後の土井氏は長男利隆が二代となったが、40歳で引退し、三代利重は27歳で若死した。
その後、四代利久へと引き継がれたが、利久も早死(10歳)したため、土井家は領地没収・御家断絶の窮地に立たされた。
しかし、利勝の功労をたたえた将軍家綱(いえつな)のはからいにより、利久の兄利益(とします)に五代をつぐことが許された。
土井氏の時代は、大聖院・徳星寺などの寺社を移転させたり、原町を古河宿に加えたりするなどして、近世の古河城下町の整備拡張も仕上がった時代である。
その後、土井利益は志摩鳥羽(三重県)へそして九州唐津(佐賀県)へと移った。
利j勝から利益までを古河の前期土井時代と呼んでいる。
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