2012.06.19
古河の歴史22 by もも子 [まちの歴史]
〔 学問文芸の栄えた古河藩 〕
〔 盈科堂 〕
もとは唐津藩の学問所として、1724年(享保9年)、土井利実(としざね)が肥前国唐津(佐賀県)に創立した。1762年(宝暦12年)土井利里が古河へ国替えのときにこれを古河城内桜町へ移したものである。
この盈科堂による武士たちへの学問奨励は、幕末に至るまでの古河文化に大きな影響を与えた。特に古学派の原双桂(はらそうけい)・恩田鶴城(おんだかくじょう)、朱子学派の小高益卿(おだかえいけい)たちは学問を好み、自主的に学問をすすめていた。
利実は、稲葉迂斎を校長にして、「水野流れは、穴を満たした後に、先へ流れる。学問も同じように順を追って進むべきである。」という孟子の教えをとって盈科堂と名づけ、教育を推し進めたいといわれている。
この学校に入学できる年齢は10歳から49歳までとして、入学するときに束修(そくしゅう)といわれる入学金を払うと、授業料はいらずに学習できた。盈科堂での学習は、午前8時ごろから正午まで行われた。生徒たちは登校すると出席板に自分の名札をかけてその順番で先生から教えを受け、学習がおわった者から下校できる仕組みになっていた。学習は、先生の周りに生徒たちが集まって座り、本を読み、先生に質問しながら進められた。内容は儒学が主で、春と秋の2期に試験が行われた。この試験の結果で生徒たちの等級(上級、中級、下級)や席順などが決まり、ほうびが与えられた。
上の書は、盈科堂の創設者である藩主利実が自ら一文を記したといわれる「盈科堂創設記」である。この「盈科堂記」の額は古河の地における学問の指針となり、古河の教育に大きな役割を果たした。
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