2012.06.06
古河の歴史21 by もも子 [まちの歴史]
〔 古河城と宿場町 〕
古河城は渡良瀬川沿いに北から南へ突出した半島を利用して土塁を築き、濠をめぐらせて構築されていた。大きさは南北約1.8km、濠を含めた東西の距離は450〜550mあり、その頃関東でも有数の城といわれていた。
本丸は東西約60m南北約130mの広さで、周囲に土塁を巡らし、御三階櫓、菱櫓、巽櫓、弓櫓などが立っていた。
二の丸は東西約45m,南北約195mの細長い曲輪で、中には二の丸御殿があり藩主在城中の居場所となったほかに、将軍が日光東照宮の参拝のさいの宿所にもあてられていた。丸の内は家老などの重臣の屋敷であった。さらに、南には頼政曲輪が連なるように続いて構築されていた。
土井利勝のときに三階櫓(天守閣)も築かれ、その姿は古河城の象徴としてそびえたっていた。
武家屋敷は城内および掘りの東側と北側に配置され、道路も防備を考えてつくられていた。
城内北側には追手門があり、そこが表玄関になっていた。追手門は、日光街道の二丁目から石町(こくちょう)・江戸町・片町を通って、西は渡良瀬川に至る幹線道路であった。これと平行して道路が街道から武家屋敷へ4通り通じていた。
東側は将軍が日光社参のとき、古河城に宿泊するための御成(おなり)道となっていた。台町には御茶屋口といわれる入り口があった。
城下町の道路は曲(かね)の手にまがったり、直角に交わったりするなど、城下町特有の道がつくられていた。城に近い地域は武家屋敷が並び、城下の外側には、雷電組、鴻巣組と呼ぶ足軽屋敷が置かれていた。
〔 日光街道と宿場町 〕
日光街道(奥州街道)に設けられた中田宿・古河宿・野木宿を古河三宿という。
古河城下宿場町の大通りには、南から原町・台町・一丁目・二丁目・横町の5か町があった。
この古河宿には大名の泊まる本陣や脇本陣があった。
古河宿と中田宿は、幕府によって整備された日光街道の宿駅でもあったので、人馬を常に準備し、人足(にんそく)や伝馬(でんま)をそろえて荷物運送にあたる問屋が数軒あった。
この日光街道(奥州街道)は江戸日本橋より北上し、中田・古河・野木の三宿を過ぎて宇都宮で分かれ、日光街道は日光に、奥州街道は白川に達している。利根川を渡る栗橋と中田には、1618年(元和4年)ころから関所が設けられていた。
〔 (にぎわった河岸(かし)) 〕
この頃の古河は、江戸と下野国(栃木)方面を結ぶ江戸川、利根川、思川、渡良瀬の河川交通としての河岸の役割も果たしていた。特に古河の船渡河岸の問屋は、この地方の河岸問屋の中心であり、年貢米や日用品、農村で生産した作物の輸送にあたっていた。肥料・綿・砂糖・小間物・塩・ろうそく・まき・すみ・地酒・地油の類が陸揚げされていた。
このように近世の古河は、城下町そして河岸の町として、さらに藩領(農村)の市場として発展していたのである。
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