2012.06.08
お休み処 坂長の袖蔵で展示会 by もも子 [イベント]
「まくらが文庫と古河の仲間たち展」
本日8日(金)と明日9日(土)お休み処 坂長の袖蔵で、「まくらが文庫と古河の仲間たち展」を開催しています。
まくらが文庫をはじめ、多くの仲間たちの作品が一堂に会した展示会です。
ひとつひとつじっくり見てください。
圧巻の作品が勢ぞろいしています。
是非、古河の地に根付かせたい文化の要素をたっぷり含んだ作品がいっぱい。
地元を愛する作者さんの心が見えてくるような温かな作品ばかり。
細かな手作業で時間をかけて作り上げた“入魂の逸品”といったところでしょうか。
こんな素晴しい作品をつくる人はどんな作者さんなのでしょう?
ちょっと気になる部分ですネ!!
展示会のご案内はこちら
2012.06.06
古河の歴史21 by もも子 [まちの歴史]
〔 古河城と宿場町 〕
古河城は渡良瀬川沿いに北から南へ突出した半島を利用して土塁を築き、濠をめぐらせて構築されていた。大きさは南北約1.8km、濠を含めた東西の距離は450〜550mあり、その頃関東でも有数の城といわれていた。
本丸は東西約60m南北約130mの広さで、周囲に土塁を巡らし、御三階櫓、菱櫓、巽櫓、弓櫓などが立っていた。
二の丸は東西約45m,南北約195mの細長い曲輪で、中には二の丸御殿があり藩主在城中の居場所となったほかに、将軍が日光東照宮の参拝のさいの宿所にもあてられていた。丸の内は家老などの重臣の屋敷であった。さらに、南には頼政曲輪が連なるように続いて構築されていた。
土井利勝のときに三階櫓(天守閣)も築かれ、その姿は古河城の象徴としてそびえたっていた。
武家屋敷は城内および掘りの東側と北側に配置され、道路も防備を考えてつくられていた。
城内北側には追手門があり、そこが表玄関になっていた。追手門は、日光街道の二丁目から石町(こくちょう)・江戸町・片町を通って、西は渡良瀬川に至る幹線道路であった。これと平行して道路が街道から武家屋敷へ4通り通じていた。
東側は将軍が日光社参のとき、古河城に宿泊するための御成(おなり)道となっていた。台町には御茶屋口といわれる入り口があった。
城下町の道路は曲(かね)の手にまがったり、直角に交わったりするなど、城下町特有の道がつくられていた。城に近い地域は武家屋敷が並び、城下の外側には、雷電組、鴻巣組と呼ぶ足軽屋敷が置かれていた。
〔 日光街道と宿場町 〕
日光街道(奥州街道)に設けられた中田宿・古河宿・野木宿を古河三宿という。
古河城下宿場町の大通りには、南から原町・台町・一丁目・二丁目・横町の5か町があった。
この古河宿には大名の泊まる本陣や脇本陣があった。
古河宿と中田宿は、幕府によって整備された日光街道の宿駅でもあったので、人馬を常に準備し、人足(にんそく)や伝馬(でんま)をそろえて荷物運送にあたる問屋が数軒あった。
この日光街道(奥州街道)は江戸日本橋より北上し、中田・古河・野木の三宿を過ぎて宇都宮で分かれ、日光街道は日光に、奥州街道は白川に達している。利根川を渡る栗橋と中田には、1618年(元和4年)ころから関所が設けられていた。
〔 (にぎわった河岸(かし)) 〕
この頃の古河は、江戸と下野国(栃木)方面を結ぶ江戸川、利根川、思川、渡良瀬の河川交通としての河岸の役割も果たしていた。特に古河の船渡河岸の問屋は、この地方の河岸問屋の中心であり、年貢米や日用品、農村で生産した作物の輸送にあたっていた。肥料・綿・砂糖・小間物・塩・ろうそく・まき・すみ・地酒・地油の類が陸揚げされていた。
このように近世の古河は、城下町そして河岸の町として、さらに藩領(農村)の市場として発展していたのである。
2012.05.28
古河の歴史20 by もも子 [まちの歴史]
〔 幕閣大名、古河へ 〕
本田忠良(ほんだただよし)は1712年(正徳2年)、三河国刈谷から古河藩主になる。将軍綱吉(つなよし)・家宣(いえのぶ)・家継(いえつぐ)・吉宗(よしむね)・家重(いえしげ)の五代に仕えている。吉宗のときには、老中を二度にわたり勤めている。
62歳で没すると忠敞(ただひさ)が後をついだ。父子二代で古河在城46年6ヶ月にわたり、土井氏につぐ長期藩主であった。
忠敞は1759年(宝歴9年)に石見国浜田へ移り、同年33歳で亡くなる。
松平康福(やすよし)は1759年(宝歴9年)に浜田から古河に来る。寺社奉行から古河藩主になり、翌年大坂城代になる。わずか4年で古河藩主としての期間は終わったが、25年間老中の座にいた。
〔 後期の土井家 〕
土井利里(どいとしさと)は1762年(宝歴12年)に唐津から古河に移ってくる。土井家が80年ぶりに古河に戻ってきたのである。利里が京都所司代在任中、藩医の河口信任に人体解剖を許した。土井家が唐津で開校した藩校盈科堂(えいかどう)もこの時に古河へ移った。1777年(安永6年)に京都で没した。その後、土井利見(としちか)が古河藩主になったが、わずか23日間の在任で急死した。
急ぎ、養子の土井利厚(としあつ)が古河藩主になった。利厚は老中を長年勤め、その功で1万石増加され8万石となった。幕府の寛政の改革に合わせて、藩政の改革に取り組んだ。風土を正し、人材を育成するために藩校(盈科堂)での読書と武芸などを奨励した。
利厚の後、養子の土井利位(としつら)が1822年(文政5年)に藩主になった。その時の家老鷹見泉石(たかみせんせき)は、大槻玄沢(おおつきげんたく)ら一流の蘭学者の間に名を知られていた。利位は学問を好み、泉石の影響を受け、日本初の雪の結晶の研究者として名を残している。
大坂城代在職中の1837年(天保8年)に大塩平八郎(おおしおへいはちろう)の乱が起きた。利位は鷹見泉石とともに事件の解決にあたった。大塩平八郎の乱の功績を認められた利位は、京都所司代、老中となり、天保の改革に参加し水野忠邦を助けて幕府の権威回復に努めた。1843年、将軍家慶(いえよし)の日光社参では、将軍の古河宿城の任務を果たしている。
利位は藩政改革を行い、倹約・人材登用・軍政改革・農政復興策をとった。老中主席にもなり、1848年(嘉永元年)、60歳で没した。
土井利亨(としなお)は、1848年(嘉永元年)に古河藩主になった。
利亨の後は、利則(としのり)、利與(としとも)と古河藩主はかわった。幕末の世情が騒がしい時期、どう対応するか各藩が混乱の中にあった。最後の古河藩主利與は1868年(慶応4年)、家老小杉監物の意見を入れ、京都の明治天皇に拝えつし尊王を約束したので、古河藩は戦火をまぬがれることができたのである。
〔 二大老・七老中 〕
近世古河藩の大名はいずれも徳川氏と深い関係をもつ譜代大名で、幕府の閣僚に列し、将軍を助ける地位にいたといえる。
古河藩主時代に大老を勤めたのは、土井利勝・堀田正俊の2人、老中であったのは、永井尚正・土井利勝・堀田正俊・松平信之・本田忠良・土井利位の7人をあげることができる。
初期のころの古河藩主は、古河城下や日光街道、そして宿場町の整備、発展に力を尽くした。中期の特色としては、農村対策に藩政の重点がおかれたといえる。後期・幕末にかけては、学問、教育、文化の進展、興隆がめざましかったということができよう。
2012.05.25
古河の歴史19 by もも子 [まちの歴史]
〔 古河藩の検地 〕
堀田正俊(ほったまさとし)は1681年(天和元年)、上野国安中から古河藩主になる。正俊は家光の乳母(うば)春日局(かすがのつぼね)の養子になっている。正俊は綱吉時代の幕政の刷新に努め、藩においては特に農政に力をそそぎ、土井利重の時の領内総検地(1664年)に続いて、1682年(天和2年)に検地を実施した。この頃から諸役(夫役)の法や年貢制度が整備されてきて、年貢納入もきびしくなっていた。
1684年(貞享(じょうきょう)元年)、正俊は親戚の稲葉正休(いなばまさやす)のために殿中(江戸城)で刺殺(しさつ)されたが、正俊の人がらを当時正俊の家臣であった新井白石がほめている。
正俊の死後、長男の正仲(まさなか)が後をついだが、1685年(貞享2年)に古河から山形へ移っている。山形の奥平昌章が宇都宮へ、宇都宮の本田忠平(ほんだただひら)が大和郡山へ、そして、大和郡山の松平信之(まつだいらのぶゆき)が古河へと移ってくる。このような国替えは三方替えといわれている。
〔 熊沢蕃山(くまざわばんざん)、古河城へ 〕
松平信之は、1685年(貞享2年)大和郡山から、老中で古河藩主になってくる。五代将軍綱吉好みの学者大名で、林鵞峰(はやしがほう)や熊沢蕃山などの儒学者と関係をもっていた。しかし、老中在任わずか1年で病気のために江戸で没した。坂間の碑に林鵞峰が松平家祖先以来の歴史と功績を刻み残している。
信之の死(貞享3年)後、長男の松平忠之が藩主になる。忠之は1687年(貞享4年)に大和郡山から熊沢蕃山を迎え受けている。
蕃山は陽明学者で、知行合一(ちぎょうごういつ)や藩民の福利をはかる実践的な考え方をもち、著書「大学或問(だいがくわくもん)」で参勤交代や兵農分離策などを批判して禁固の身になった。古河幽居中ではあったが、忠之は父信之と同様に、蕃山の学問、政治力を尊敬・崇拝(すうはい)していた。蕃山は治水事業に明るかったため、古河藩領内には蕃山が指導したといわれる蕃山堤や蕃山溜が今に伝えられている。
蕃山は1691年(元禄4年)、73歳で古河城内で没し、大堤の鮭延寺(けいえんじ)に手厚く葬られている。
〔 頼政神社を改修 〕
松平信輝は1694年(元禄7年),
川越から忠之の後に古河藩主になっている。信輝は「知恵伊豆」といわれた松平信綱の孫である。古河城の立崎曲輪に祖先頼政の廟所(びょうしょ)のあることを大変喜び、その社殿(頼政神社)を修築した。弟の輝貞は大灯ろうを寄進したり、高崎城内に頼政神社を造ったりしている。
信輝は1709年(宝永6年)、50歳で引退した。松平信祝(のぶてき)が後をついだが、3年後三河国吉田へと移っていく。
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