2012.05.09
古河の歴史15 by もも子 [まちの歴史]
〔氏女(うじひめ)〕
義氏の娘氏女は、小田原北条氏滅亡後、公方が絶えることを惜しんだ豊臣秀吉により、鴻巣・原・長谷・牧野地などを領地として与えられ、古河城から鴻巣御所(こうのすごしょ)(茨城県指定史跡・古河公方館跡)へ移された。
更に三代公方高基の弟義明の孫である喜連川国朝に嫁いだ(氏女は鴻巣御所に居住)。
国朝が病に倒れると、氏女はその弟の頼氏(よりうじ)と結ばれて、義親(よしちか)を生んだ。
頼氏は喜連川家の家督を継いだ。
氏女は1620年(元和6年)に鴻巣御所で46歳の生涯を終えるまで、古河の氏の誇りを持ち続けていたのである。
法号を「徳源院伝慈峰晃公」(とくげんいんでんじほうこうこう)といい、鴻巣の徳源院に葬られたといわれている。
義親の子尊信(たかのぶ)は古河から喜連川(栃木県喜連川町)に移り、古河公方の時代は終わった。
2012.05.08
古河の歴史14 by もも子 [まちの歴史]
〔四代古河公方足利晴氏(はるうじ)〕
高基の子晴氏は、北条氏綱(うじつな)(早雲の子)の娘と結婚した。これは公方の力を盛り返そうとして北条氏との親戚関係を作ったと考えられるが、かえって関東での北条氏の勢力を強いものにしてしまった。
その後、晴氏は上杉憲政と手を結び、身内である北条氏を攻めて(1546年川越の夜戦)力を示そうとした。
しかし、氏綱の子氏康に破れ、相模(さがみ)国波多野(はたの)(神奈川県秦野市)に追われた後、下総(しもうさ)国関宿(せきやど)(千葉県関宿町)に移された。元栗橋(五霞町)付近の島というところで1560年(永禄3年)に没した。
関宿町の宗英寺(そうえいじ)に墓所とされるものがある。
2012.04.29
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