March 2012

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2012.03.02

古河の歴史10 by もも子 [まちの歴史]

前回の「古河の歴史9」の掲載はここ



〔関東争乱と古河公方の成立〕
京都に置かれた室町幕府は、関東にも幕府と同じ組織の「鎌倉府」を設け、将軍に当たる鎌倉公方や、幕府の管領(かんれい)と同じように関東管領を置いて、東国10カ国を治めていた。将軍足利尊氏(たかうじ)の四男基氏(もとうじ)が初代鎌倉公方の間に対立が起こり、関東で争乱が続いた(1416年(応永23年)の上杉禅秀の乱)。
後は、将軍と鎌倉公方の全面対決となっていった。

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2012.02.20

古河の歴史9 by もも子 [まちの歴史]

前回の「古河の歴史8」の掲載はここ



〔鎌倉街道と静御前〕
このころの主要な道となっていた鎌倉街道はいく筋も通っていたが、主なものは、
鎌倉 ― 武蔵国府中 ― 高崎 ― 信濃国へと続く「上の道」(かみのみち)、
鎌倉世田谷(東京都)― 春日部 ― 宇都宮 ― 奥州への「中の道」、
そして、
鎌倉 ― 浅草 ― 下総国国府台(こうのだい)(千葉県市川市)へと続く「下の道」(しものみち)があったと言われていて、古河のあたりは、陸上では「中の道」、水上では「下の道」に沿って鎌倉へ結ばれていたといえます。

この鎌倉街道沿いには多くの伝説が残されています。静御前の話もこのあたりに残された伝承の一つで、当時の様子を知る手がかりになるでしょう。
古河周辺に伝わる静御前の伝承はおよそ次のようです。

東北地方に逃れた源義経を慕い、侍女(じじょ)の琴柱(ことじ)を連れて旅を続けていた静は、下総国下辺見(古河市下辺見)まで来たとき、義経が奥州高舘(たかだち)で戦死したと聞かされ、思い悩んだ静は、そこの橋(思案橋)から引き返し、前林へ向かった。途中振り返りながら柳の枝を結んだといわれる。「結びの柳」や「静かえり」という地名なども残っている。

栗橋まで戻り、伊坂の里(高柳寺)(こうりゅうじ)で、琴柱に看取られつつ静は亡くなりました。

静御前の遺品と伝えられる舞衣(まいごろも)(蛙蟆龍の御衣)(あまりょうのごい)・義経のかたみの懐剣などは、そのとき納められたもので、寺宝として残されています。(光了寺縁起より)

高柳寺は、古河(中田)に移って、現在光了寺と呼ばれている。光了寺の宝物館(太子堂)に静御前の遺品などが保存されていて、「蛙蟆龍の御衣」は古河市指定文化財になっています。
ほかに静橋(中田)、静の椿(前林)などの伝承があり、供養碑は栗橋駅前にあります。

これらの伝承から鎌倉街道は、鎌倉 ― 伊坂 ― 前林 ― 下辺見 ― 古河 ・・・ 奥州へと続く道があったと考えられます。


静御前終焉の地を行くはここから

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2012.02.17

古河の歴史8 by もも子 [まちの歴史]

前回の「古河の歴史7」の掲載はここ



〔頼政神社〕
古河市錦町にある頼政神社は、この源頼政をまつったもので、次のようないわれがあります。

源頼政が平等院で自害したとき、その側にいた家来に、「わが首をもち諸国を回って、魂の安まるところを探せ。」といったというのです。その首を背負って逃げた家来は、関東までやってきて、とある小高い丘で休みました。

「さて、行ってみるか。」と持ち上げようとすると、その首が石のように重くなり、持ち上げることができなくなりました。これはきっとこの場所に葬(ほうむ)れということに違いないと考え、その場所に首をまつったと伝えられています。

そこは当時、源氏の重要な御家人の領地であった下河辺の荘(古河地方)の立崎(たつざき)でした。頼朝の一番の側近であった下河辺氏の荘内にまつられたことは、頼政にとって心の安まる地であったのでしょう。(頼政神社縁起より)

この立崎の地に、手厚くまつった祠(ほこら)(首塚)が頼政神社の始まりです。
なお、現在の頼政神社社殿は、1696年(元禄9年)当時の古河城主であった松平信輝が、祖先の墓として城内に修築したものを1913年(大正2年)渡良瀬川河川改修工事の時に、現在の錦町(三国橋近く)に移築しました。


ということは、平等院鳳凰堂の裏手境内に胴塚があり、古河の立崎の地に首塚があるということで、歴史を紐解いていくと、思いもかけない事実を知ることができるのですね!!

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2012.02.15

古河の歴史7 by もも子 [まちの歴史]

前回の「古河の歴史6」の掲載はここ



〔源頼政〕
行平は富士川の戦いの恩賞として、1193年(建久(けんきゅう)4年)に下河辺荘司(しょうじ)(下総国)となり、頼朝をいつも守る側近として重要な立場に置かれました。

行平が頼朝の難を救ったときに下河辺の荘民にとって非常に重い年貢となっていた馬の調達の免除を願ったところ、頼朝はその願いを聞き入れ、下河辺荘の馬の年貢を廃止したといわれています。

『このことから、行平が頼朝から信頼されていた事実と、行平の荘民思いの心が伝わってこよう。』(吾妻鏡(あづまかがみ)より)

1192年(建久3年)に源頼朝が鎌倉に幕府を開き、武家政治の時代となるが、これより先、1180年(治承(じしょう)4年)に以仁王(もちひとおう)を奉じ、最初に平氏打倒に立ち上がった源頼政は、当時関東に勢力をもっていた源氏が応援に駆けつける前に破れ、宇治(京都府)の平等院で自害した。

宇治の平等院には、頼政が軍扇(ぐんせん)上で割腹したところと伝えられる「扇の芝(おうぎのしば)」があり、そこに辞世の歌碑(死に臨んで残した歌)が建っています。
『埋もれ木の花咲くこともなかりしに身のなる果てぞかなしかりける』

平等院(鳳凰堂(ほうおうどう))の裏手境内(けいだい)には、檜(ひのき)の木に囲まれた頼政の墓(胴塚)があります。
頼政は弓の名手であり、そのころ京都で「ぬえ」という怪獣を射止めたという伝説をもち、それによって武勇の名が全国に広まったといわれており、また、歌人としても有名でもありました。


源頼政の名が登場し、また一歩古河の歴史を身近に感じられ、この先が気になりますね!

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2012.02.06

古河の歴史6 by もも子 [まちの歴史]

前回の「古河の歴史5」の掲載はここ



源頼朝が関東一円にその力を伸ばそうとしたとき、小山朝政(ともまさ)は野木宮(のぎみや)(野木神社)を陣地として志田義広(しだよしひら)らの反対勢力を激戦の末に破った。

この野木宮の戦いでは、下河辺行平・政義(まさよし)(兄弟も大活躍し、ほうびが与えられた。
野木神社にも社領が贈られ、三代将軍源実朝(さねとも)は、その時の合戦のお礼として「神馬」を野木神社に贈ったと伝えられています。

行平は、「日本無双(むそう)の弓取り」といわれた弓の名人で、射会のときにはいつも一番に矢を射たとされ、二代将軍源頼家(よりいえ)の弓の師でもありました。

下河辺氏は一時関宿を本拠としたこともあるが、長くは古河(五霞、総和、三和、栗橋を含む一帯)を居所としていたことが、「永享記(えいきょうき)」という記録に記されています。

また、下河辺氏の創建といわれる古河城は、周りに堀を巡らし土塁(どるい)で囲った「館(やかた)づくり」であったといわれていますが、場所はいまだ明らかではありません。


永享記インデックスはこちらです。
興味深い記事がたくさんありますよ!

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