2010.11.12
古河提灯竿もみまつり応援団 その5 by もも子 [耳寄り情報]
【竹竿は変化し工夫が加わった】
江戸時代までは、あまり長くない竹竿を1人が1本持ち、1つの灯を灯していました。
次第に(明治に入って)、1人1本ではなく、現在の形に変化していき、トンボやカンナをつけた長い竿で15人〜20人位で行なわれるようになり、大きな竿の周りには、もみ手やチームの安全を守るため、小さな提灯を持った、護衛役の人をつけるようになっていきました。
まつりというよりむしろ競技といった方がよいくらい激しいものだからなのです。
横山町に集まった若者たちは、各自が自分の名前を書いた提灯を馴染の女郎衆に見せて自分の存在を示したが、これを争ううちに次第に竿の長さが長くなり、そのため1人では持ちきれなくなって、何人かが共同で支えられるように竿の構造が改良されていきました。
2010.11.05
古河提灯竿もみまつり応援団 その4 by もも子 [耳寄り情報]
【横山町と鍛冶町は特別な位置づけだった】
鍛冶町の人はもともと野木の住人だったのです。
江戸時代、野木のレンガ場(渡良瀬北斗乗馬クラブさんに隣接しているレンガを焼く窯がある所を昔から「レンガ場」と呼んでいる)近くの台手箱という所に住んでいた鍛冶職人は、江戸時代になって古河藩の城下町を築くため、鍛冶町に住むようになりました。
鍛冶町の人々は、現在に至るまで、野木神社の祭礼に21本のボンボリを奉納したり、七郷(しちごう)めぐりの神事にも供物を供えるなど、野木神社との結びつきは密接なのです。
“おかえり”に野木の人々も参加していたのは、横山町と野木町は江戸時代初期には行政区が一緒で、横山町は野木町に属していたからなのです。
従って、横山町の人々も野木町で行なわれていた提灯竿もみまつりに参加していました。
横山町は、江戸中期から花柳界へと発展していきました。
すると次第に、野木町で提灯竿もみまつりをやるより、賑やかで華やかな横山町の花街でお祭りをするようになっていきました。
この時の提灯竿もみまつりは、横山町と鍛冶町の住人が中心となり、その後、他の町内の人々も参加するようになっていきました。
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≪もも子のひとりごと≫
自分の存在を誇示する・・・
形や方法は違っても、いつの時代でも“アピール”は欠かせないものなのかも!!
アピールといえばこんな光景を見た事が・・・オス鳥がメス鳥の気を引くために、一生懸命羽根を広げ一心不乱に踊っている。。。
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