2017.11.20
「古河提灯竿もみまつり」おさらい【3】 by もも子 [提灯竿もみまつり応援団]
【横山町と鍛冶町は特別な位置づけだった】
鍛冶町の人はもともと野木の住人だったのです。
江戸時代、野木のレンガ場(レンガを焼く窯がある所を昔から「レンガ場」と呼んでいる)近くの台手箱という所に住んでいた鍛冶職人は、江戸時代になって古河藩の城下町を築くため、鍛冶町に住むようになりました。
鍛冶町の人々は、現在に至るまで、野木神社の祭礼に21本
のボンボリを奉納したり、七郷(しちごう)めぐりの神事にも供物を供えるなど、野木神社との結びつきは密接なのです。
“おかえり”に野木の人々も参加していたのは、横山町と野木町は江戸時代初期には行政区が一緒で、横山町は野木町に属していたからなのです。
従って、横山町の人々は野木町で行なわれていた提灯竿もみまつりに参加していました。
横山町は、江戸中期から花柳界へと発展していきました。
すると次第に、野木町で提灯竿もみまつりをやるより、賑やかで華やかな横山町の花街でお祭りをするようになっていきました。
この時の提灯竿もみまつりは、横山町と鍛冶町の住人が中心となり、その後、他の町内の人々も参加するようになっていきました。
〜〜もっと詳しく知りたい〜〜
おかえりの到着を待ちわびた若者たちが、野木でもみ合っているうちに、遊郭や料理屋が立ち並び、古河随一の歓楽街であった横山町で時間を潰し待つようになり、そのうち馴染の女郎衆などができると、「野木でもむよりも横山町でもみ合った方が張り合いがある」というので、次第に横山町がもみ場として定着してきました。
あるいは、古河の町中をもみ合った若者たちが最後に落ち合う場所が自然と横山町となったという事も考えられます。
いずれにしても、横山町のマチにおける機能(それは、マチが周囲の農村に対して持つ機能の一つ)が作用して、まつりがマチへ定着したと考えられます。
もみ合いの持つ意味が、暖をとることや行列の進退をめぐって争う、という肉体的、感覚的なものから、男らしさの誇示へと転換していきました。
この意味の転換が、以降のまつりの基調をかたちづくり、まつりを洗練させる契機となりました。
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≪もも子のひとりごと≫
自分の存在を誇示する・・・
形や方法は違っても、いつの時代でも“アピール”は欠かせないものなのかも!!
アピールといえばこんな光景を見た事が・・・オス鳥がメス鳥の気を引くために、一生懸命羽根を広げ一心不乱に踊っている。。。
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