2012.03.12
古河の歴史13 by もも子 [まちの歴史]
〔二代古河公方足利政氏(まさうじ)〕
政氏は1506年(永正3年)子の高基(たかもと)と不和になり、高基を宇都宮へ追いやった。その原因は、北条氏の進出に対して高基は同盟を考えたが、政氏がこれに反対したためとされる。1509年(永正6年)、いったん和解が成立し、高基は古河に戻ることはできたが、長くは続かず3年後再び不和になる。
1519年(永正16年)、政氏が久喜の館に隠退(いんたい)し、高基とも和解したといわれる。
二代政氏は1531年(享禄4年)に66歳で没す。
「甘棠院殿吉山道長(かんとういんでんきちざんどうちょう)」と号し、甘棠院(久喜市)に葬られている。
〔三代古河公方足利高基(たかもと)〕
高基は三代古河公方となったが、親子の不和に続いて弟義明(よしあき)(小弓御所 千葉市)との争いもあり、公方への不信感を強めてしまった。そのため、この頃関東で力を伸ばしていた北条氏の力を強くしてしまうこととなった。
高基は1535年(天文4年)(てんぶん)に古河城で没した(没年には51歳の説がある)。千光院というところに葬られたというが、場所は明らかではない。
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