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2012.03.02

古河の歴史10 by もも子 [まちの歴史]

前回の「古河の歴史9」の掲載はここ



〔関東争乱と古河公方の成立〕
京都に置かれた室町幕府は、関東にも幕府と同じ組織の「鎌倉府」を設け、将軍に当たる鎌倉公方や、幕府の管領(かんれい)と同じように関東管領を置いて、東国10カ国を治めていた。将軍足利尊氏(たかうじ)の四男基氏(もとうじ)が初代鎌倉公方の間に対立が起こり、関東で争乱が続いた(1416年(応永23年)の上杉禅秀の乱)。
後は、将軍と鎌倉公方の全面対決となっていった。

〔永享の乱 1438年―1439年〕
1438年(永享10年)(えいきょう)、六代将軍足利義教(よしのり)は、関東管領上杉憲実に四代鎌倉公方持氏を討つことを命じた。翌年2月10日、公方持氏と長男義久は自害した。二男春王丸(はるおうまる)、三男安王丸(やすおうまる)は日光二荒山(ふたらさん)へかくまわれ、四男万寿丸(まんじゅまる)(後の足利成氏)(しげうじ)は信濃国の大井持光(もちみつ)に保護されることになった。


〔結城合戦 1440年―1441年〕
小山氏の流れをひく結城氏朝(ゆうきうじとも)は、公方持氏を慕う武士を集め、結城城にたてこもり、春王丸・安王丸を守ろうと上杉軍勢と戦った。1440年(永享12年)結城氏朝と長男光久は幕府の大軍と1年あまりも戦い続けたが、翌年(嘉吉元年)夏に結城城は陥落し、氏朝、光久、野木常友らは猛火の中で討ち死にした。
春王丸、安王丸の二人は捕らえられ京へ送られる途中、美濃国金蓮寺(こんれんじ)(岐阜県垂井町)で殺された。
結城城が落ちた後、古河城も京都・鎌倉の大軍によって落とされ、上杉氏の所領になった。



まさに戦乱の世、こんな中でこれから先、ここ古河の地に歴史上に名を残す“古河公方”“古河城”が出現してくる場面に差し掛かってきます!!

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